沖縄伝承話データベース

城間亀助さんの語り

喜納門中と読谷村楚辺(しまくとぅば)

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【語りの梗概】

読谷の楚辺の人たちは、自分の門中の元がね、もうどこかわからない。あっち拝んでも違う。またこっち拝んでも違うで、あまり楚辺は栄なかったらしい。しかし、元祖元が私たちの喜納門中ということに分かってこっちを拝んだ。そしたら、楚辺は非常に栄えたんですね。それから、楚辺の人が、ウマチーの場合にたくさんお出でになって、この部落の御嶽とか、またこの部落のあちこっち井戸もあるから、そこを部落の人と一緒に拝むんです。また、楚辺の門中に関係する人が首里からも来て、こっちを拝むんですよ。これが分かったのは私が十八の歳であったんだろうと思います。なぜかと言えば、私たちのところは五年に一回、山田御拝みといって行くんですよ。山田拝みというのは、恩納村の山田の何というか拝所の名は忘れているが、昔はね、男は行ってならんカーの拝所がある。そこを拝むことですよ。そこは、石の間のカーで、昔の祝女が水をあびるところがあるわけさ。今はお風呂もあるが、昔は女ばかりで、カーの水で浴びるために石の下から行って、女が拝んだわけです。昔から、「あそこに男は行ってはいけないよ。」とみんなにいわれていたから私も行かずに、その隣の拝所を拝んだ。そして、昔は普通、歩いてだから、その晩は、読谷の比謝橋を越えてじきの部落の伊良皆の祝女殿内で一晩は泊まりよって、それから、伊良皆の根人というところも拝んで帰りよった。そのときは、山田拝みに楚辺の人も一緒に来たんですよ。それで一緒に拝んだら、その年は楚辺の元祖が喜納門中といって捜されたその年であったらしいから、「門中の根所、元祖元から拝みに来られておる。」と言って、こんどはみんな向こうの楚辺に招待されて、あっちで一晩ひじょうに遊んだんです。本当は、前は夕飯まで弁当を持って、また泊めてもらったら朝飯といって米一合づつ持って行ってやりよるのが普通だったんです。それが、「読谷山には楚辺暗井戸があるから、それを見せてあげます。米なんかいりません。」と言うから、こんどはまた自然と楚辺暗井戸の話になって、翌日はその楚辺暗井戸を見せてもらった。それで、楚辺の元はこっちだと分かったのは、山田拝みに行ったその年であったということは確かです。

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